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190627

 190627
 ・私の生まれたのは1949(昭和24)年、K市の場末で借家、北側にある路地に面して屋根のついた引き戸の門があったが古く小さな家だった。1畳ほどのたたきに2畳の玄関があり南に3畳の茶の間となる、勝手がその南に 土間と床とガチャポン井戸。茶の間の東に8畳の間があり居間兼寝間兼客間である。その南が廊下があり東の突き当りが便所。汲み取り式の電気なしなので怖い。小さな庭がマサキの垣で区切ってある、そこに親子4人が暮らしていた。
 こう書いているとあの頃のことが次第に思い出されてくる。多分時系列のないつまみ食いの記憶が涌いてくるようだ。
 玄関を右に出て東へ並んだ2軒を過ぎると南北に走る大幹通りにでる。右へ行けば街中へ、左へ向かうと道路の先に男体山が見える 100mも行かぬうちに田園地帯になる堺が祭りの結界となる所だ。
大幹通りへ出て右へ進むと100m位のうちに店が並んでいた。向かいの角に床屋 和菓子屋 炭屋 薪屋 魚屋 営団 金網屋 米雑貨屋 豆腐屋 魚屋 引出物屋 和菓子屋 麹屋 反対側には建具屋 下駄屋 雑貨屋 畳屋 編み物屋 酒屋 肉屋 八百屋 貸本屋 質屋それに大地主のS宅(後にこの屋敷は地本にある大学の職員宿舎として移築したそうだ)と中々な商店街であった。酒屋のもぎり酒やその他お使いは 毎日のようで朝は豆腐のお使いが多かった。貸本屋へ漫画を借りに行くなどは楽しみの一つだった。酒屋へ行くと大きな樽が置いてありお爺さんが上から棒でかき回
してから下の注ぎ口のコックをぬいて量り売りするのだ。何か混ざっていたのかな? 4合瓶を持ってのお使い、朝は手鍋を持って豆腐屋へ行くのだが日課にちかかった。お使いはそんなに嫌で無く、家にいるよりも店にはあれこれ色々なものがあり、見ているだけでも楽しかった。何しろ明るいのが活気に見える。人もいる。
 商店街の一角に正田という貸本屋がありマンガを借りに行く、月刊の漫画や単行本を借りるのだが、特に杉浦茂の何とも不思議な絵の漫画が強烈に残っている。昭和30年代前半の頃10円前後で借りていたように思う。

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2019-06-24

続き、父は寛、祖父は修一、曾祖父は義親、その前が義純でその前は戒名で探すしかないが年月日が読めず。
 母方はG市のN地区で代々百姓らしい、祖父は同市生の婿である。実家は小池姓で旧家と聞く元を辿ると同姓の公家であるとか、失脚の後武家を渡り歩いて此処(城下町)にたどり着いたという話を本気な母に聞いた。確か分家に街家では大きな事業家がいた。でも、百姓の娘は上級学校には行っていない。無学で貧乏な両親のもとにご誕生した。
本:雁(鴎外) 浮雲(亭四迷) うたかたの記・舞姫(鴎外)五重塔(露伴)



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190615

乱歩:一寸法師 陰獣 芋虫 孤島の鬼 押絵と旅する男 虫 何者 猟奇の果 魔術師(乱歩これにて暫く休憩する) 鴎外:雁 亭四迷:浮雲

・昔のいろいろ3 私の父親は大正6年、母は大正9年、父はH郡N村、教員の3男、母はG市N地区農家の長女である。子供は4歳上に姉がいる4人家族である。私より5歳位下に弟が居てよかったらしいが生まれなかったという話を後で聞いた。
 父方は父親(私の祖父)が教員をしていたが父が14歳の頃病死した。そのため上級学校へは行かずに丁稚奉公にでた。祖父は小学校長をしていたが外に子供も居、無知な母親の断か。父の叔父は市内で診療所を営んでいたが母親との折り合いが悪く、父の処遇を後で知ったそうだ。(のちにこの医者のおかげで病弱だった私は助かった思いがある。)
曾祖父はやはり小学校長で神主をしていた(元々修験寺の住職であったが明治を機に地元神社の神主となるが世襲ではない)。地内の寺の住職の話では400年以上の歴史があると云ってくれたが系図書がないので解らない。貧乏の折借金の片にとられたままだ(明治以降のことらしい)と聞いたが、見つかったらがっかりするかも知れぬ。家は曾祖父以降神式の葬儀なので仏壇ではなく神棚に先祖の位牌がある。江戸時代に遡ると権大僧都、法印、某和尚、某院等どうもお寺っぽい戒名が多い。古いものは元禄までか

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2019-06-06

朝:ごはん キムチ 茄子入りごった煮 昼:マクドナルドのハンバーグとチキンクリスプ 玉葱酢  夕:ごはん 買った餃子 サラダ 肉と茄子の炒め
 ※昔のいろいろno2
 借家の向かい側は塀と倉庫の外壁で一間くらいの路地である。大通りから入ると街灯はなく日が暮れると真っ暗、怖いので歌を歌いながら歩くと家まで帰れる。
 昔は皆そうであったがその家で産婆さんで生まれたとのことでその記憶はない 戦争が終わって4年弱、映画に出てくる闇市のなごり濃い時期であったろう。令和の御代となった今年から見るととんでもなくいろいろを経験してきたと思う。

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190604

朝:ごはん小 昨日の残りの肉野菜 納豆 昼:はま寿司の90円寿司6皿 夕:ポテトサラダ 茄子の鴫焼 天ぷら うどん
・F施設の借用申請6月25日分400円也
※昔のいろいろ№1
・私の生まれたのは1949(昭和24)年、K市の場末で借家、北側にある路地に面して屋根のついた引き戸の門があったが古く小さな家だった。1畳ほどのたたきに2畳の玄関があり南に3畳の茶の間となる、勝手がその南に 土間と床とガチャポン井戸。茶の間の東に8畳の間があり居間兼寝間兼客間である。その南が廊下があり東の突き当りが便所。汲み取り式の電気なしなので怖い。小さな庭がマサキの垣で区切ってある、そこに親子4人が暮らしていた。
 こう書いているとあの頃のことが次第に思い出されてくる。多分時系列のないつまみ食いの記憶が涌いてくるようだ。
 玄関を右に出て東へ並んだ2軒を過ぎると南北に走る大幹通りにでる。右へ行けば街中へ、左へ向かうと道路の先に男体山が見える 100mも行かぬうちに田園地帯になる堺が祭りの結界となる所だ。
大幹通りへ出て右へ進むと100m位のうちに店が並んでいた。向かいの角に床屋 和菓子屋 炭屋 薪屋 魚屋 営団 金網屋 米雑貨屋 豆腐屋 魚屋 引出物屋 和菓子屋 麹屋 反対側には建具屋 下駄屋 雑貨屋 畳屋 編み物屋 酒屋 肉屋 八百屋 貸本屋 質屋それに大地主のS宅(後にこの屋敷は地本にある大学の職員宿舎として移築したそうだ)と中々な商店街であった。酒屋のもぎり酒やその他お使いは 毎日のようで朝は豆腐のお使いが多かった。貸本屋へ漫画を借りに行くなどは楽しみの一つだった。酒屋へ行くと大きな樽が置いてありお爺さんが上から棒でかき回してから下の注ぎ口のコックをぬいて量り売りするのだ。何か混ざっていたのかな?
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