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191011

貧乏な昔の話2:家は借家で風呂は無かった。街中では銭湯があちこちにあり銭湯通いは一般的であったと思う。我が家に風呂を設けたのは私が中学生の頃だった。勝手から続けてトタンで小屋を建て木造で小判型の風呂桶を石炭で焚いた懐かしき風呂だった。トタンに打ち付けた釘の穴から隣の息子がお袋の入浴姿を覗いたらしいとエピソード付きの風呂だった。
風呂のない時期は週に何度か銭湯に行き、以外は蒸しタオルで体を拭いて間に合わせるのが常だった。
銭湯は近所の人と顔を合わせる機会だ、勿論知らない人もいるがそのうち顔見知りになる社交場でもあった。そんな中で肌の黒い子や白い子を見かけたがそれがハーフの子であることは後から知った。その子たちも私が小学生の頃になるうちにいつの間にか居なくなってしまったようだ。隣の駅で降りた場所にアメリカ軍のキャンプがあったためだということも後から知った。
大人から戦争の話を聞いたり、縁日には白衣を着た傷痍軍人が義手義足でアコーデオンの曲を背に膝間付き物乞いする姿があったりの時代だった。

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191010

貧乏な昔の話:私の父親は自分の記憶では保健所に勤めていた。徴兵から復員し、8月14日の空襲にあい終戦となる。この空襲で住江町に住んでいた親戚も何人か死んだと聞いた。母親は身重のなかで空襲に怯えたらしくそれで生まれたのが姉である。物のない時代に姉を育て4年経って私が生まれることになる。闇市が無ければ飢え死にしそうな戦後の物のない時代である。ひき売りで買った肉が犬の肉だったとかいう話もあった時だ。
父親は保険会社に勤めていたが中途から保健所に勤めた、最初は給仕からのスタートだったと母から聞いた、多分私が二三歳の頃だと思う。
借家の路地から大通りを横切り暫く行って右に曲がった途中にお宮があった、その空き地に紙芝居がくる。他の子は小遣いを10円貰うがうちは5円だった。姉と一緒に見に行き姉が5円を払って水飴を買い私はただ見をすることになる。「わーい!ただ見だあ」と他の子に避難されるのが悲しかった。が紙芝居のオジサンが「いいよいいよ見せてあげるよ」と僕のただ見を受け入れてくれる、さみしい思いで見る「黄金バット」だった。

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191002

 今日は寄居に行ったついでに、山之内上杉家の長尾景春が築城といわれる「鉢形城」を散策。天気晴朗にて彼岸花も咲く秋、深沢川と城壁のなかを歩いた。止めた駐車場でライトを付けたままの軽自動車を見つけ忠告をするとそこから話が始まる。ご近所に住んでいるとか、生まれは筑波山の麓であるとかの話が盛り上がり散策時間僅少、もっと時間が欲しかったが見知らぬ人との会話も捨てがたい穏やかな秋の日だった。
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191001

今日から10月、また、消費税が上がり10%になりながら変な軽減策。年金額は上がらず介護保険料の天引の上にまた2%の天引き消費税、買い物を控えるだけの抵抗。
年間70万円程度の(私はもっと少ない)の国民年金で生活ができるのだろうか。
・なぜかカツ丼が好きだ。最近はチェーン店のカツ丼を良く食べるがチョッと違う気がする。子供の頃の我が家は貧しかった、小学校二年生の頃初めて出前のカツ丼を食べたような記憶。カレーは母親がうどん粉を炒った中にカレー粉を入れるタイプのを良く作ったがカツ丼の記憶はない。ましてやカツカレーなんてのは想像もできなかった。
あの頃のカツ丼は「蕎麦屋」か「食堂」である。だし醤油と砂糖に硬めの卵で合わせた特に蕎麦屋のカツ丼が美味いと思った。
30歳代の頃、ある会館での研修会があった。郊外にある研修場所で近所に食堂がない。少々離れたところに蕎麦屋があり大方がそこへ集まってきたが、多分蕎麦では腹に足らずみんなカツ丼を注文。
蕎麦屋のおやじいわく「うちは蕎麦屋だ、何故蕎麦の注文がないんだ!」 みんな、はらが空いていたんだ。
店の看板 「藪伊豆」とあった

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