SSブログ

210126

雑 念  
 私が生まれたのは戦後4年経った年だ、地方都市の場末にあり一戸建だが古い借家、勿論風呂は無くタタキにガチャポン井戸、土地が低く夕立が来ると庭は池になり便所に浸水しあふれ出すことがある。
 北側にある路地に面し、屋根のついた引き戸の門をくぐり玄関がある、一間の沓脱を上がると2畳の間と押し入れがある、その先が3畳の板の間で食堂兼居間となる、その南に炊事場があり土間と上がり框になっている。食堂兼居間の東側に8畳の間と廊下があり廊下の東突き当りに便所があった。
 8畳の間は寝室となり親子4人が枕を並べて寝る。この八畳の間は昼間母親の内職の場であり西南の隅に座布団と針坊主があった、後ろの壁の棚にラジオがありこれを聞いていた、そこから流れてくる音楽は勿論日本の歌謡曲が多かったが特に印象に残っているのはビクターヤングオーケスストラの「エデンの東」、とてもきれいな曲で見たことのない映画のワンシーンを想像し想いを馳せた気がする、あとはいわゆる歌謡曲で明るいイメージのものが記憶に残る、お富さん・憧れのハワイ航路・銀座の花、売り娘・リンゴの唄・・・小学校に入る前から小学生に至るくらいの何か家にない新しいものを求めていた気がする、貧乏だし暗かった気もする。
 テレビの無い時代、街頭テレビや食べ物屋にあるテレビでプロレスを見るために足を運んだ、行くときは父親と一緒である。星川にあった街頭テレビは時間になるとオジサンがカギを持ってテレビの入った扉を開けに来てスイッチを入れる、皆さん拍手。外に良く言ったのは和菓子屋にテレビがあり和菓子を買って摘まみながら観戦を一時間、親戚筋に町医者がありそこへ父親の同僚と見に行ったこともあった、畳の部屋でおやじの膝で観戦するうちに寝てしまう小学生低学年だった、
 母親は今でいう専業主婦、父親の収入が少ないので内職をしていた、針坊主をとチョッキン挟みが印象に残っている、内職だけでなく布団皮とか毛糸の網直し、服の繕い等多分他の家でもやっていたのだろう。
此の頃は街中の商店は概ね景気が良かったようだ、家では買って貰えそうにない既製品の服を着子供用の自転車を持っていた、今では手作りが贅沢であるが当時は違う、我が家なんぞは一度編んだ古い毛糸をほぐして繫いでこれを釜で蒸し、しごいて伸ばして出来上がった毛糸を上手く併せて編みあがるセーター、これを着て学校に行くのが恥ずかしかった家庭の事情。今あれば懐かしい

nice!(0)  コメント(0) 

210113

しばらくお休みのうちに年が改まってしまったというしまったをしないようにしないとボケがなお近づくと思い新たな三日坊主を起こそうと思う。
 今日は出かけず済みそうだ、先週の土曜から周辺俄かに殺気づき月火と少々遠出をした、片道100キロ未満の所だが高速道路を使うと小遣いが減ってしまうのでトラックの多いでここかしこで渋滞だ、運転の訓練にはなるかもしれぬ。
 土曜の夜はよく眠れなかったがA=がいるらしいので半分安心したが共倒れだったらどうしようかがふと頭をもたげたりして微妙な不安がこれまたもたげたりしてチョッと疲れた。日曜日にメールして月曜日に行く。しきり、に頭が痛いというが何とか対応しているので良かった、幾日かは心身共につらいだろう。心配なので火曜日にも行った。

nice!(0)  コメント(0) 

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。